重なり合う世界、それぞれの速度
著者:石川祐


「うわ、服が重てぇ。 絞れそうだなこれ」
「ほんとびしょびしょ…みぃちゃんは大丈夫?」
「お、お兄ちゃんがかばってくれたから」
「海南が風邪でも引いたら大変だからな」
海南に僕のハンカチを渡し、自分の制服の水を払うと、遠くで雷の音が聞こえた。
春雷という奴だろうかとふと考え、雨で冷えた体を震わせる。
いきなり降り出した雨に打たれたため、僕達は途中で別れることなく一番近い山南家に転がり込んだ。
もちろん、それなら隣の薬袋家でもいいわけだが、単純に広さの関係でこうなったわけだ。
玄関に上がってすぐに海南がタオルを取って来てくれたので、玄関で雫を払う。
水で濡れた髪がべたりと額に張り付いて気持ち悪い。
「おにいちゃーん、お風呂も沸かす?」
家の奥から海南の声が聞こえ、「頼んだ」と返す。
水月は声を上げて喜んだ。
「この家のお風呂って広いから好き〜♪」
「…つーか、深山の家ってでかいんだな…」
瀬古はそう言いながらきょろきょろと辺りを見回している。
そういえば瀬古は始めて来たんだっけか。
中等部から付き合いはあったけれど、そうか、あの頃はそれどころじゃなかったからな…。
「父親が大使館勤めだから、広くないと色々とまずいんだ」
「なんじゃそりゃ!?」
僕の答えに瀬古が叫ぶ。
そんなに驚くことかと首を傾げると、隣で水月がくすりと笑った。
「瀬古くんって、結構深山のこと知らないのね?」
「くそ、幼馴染だからって優劣がつくと思うなよ」
何故かまた火花を散らし始めた二人に呆れつつ、本格的に体が冷えてきたのを感じた。
「何を争ってるんだお前らは…というか大体水切れたらさっさと上がって着替えよう。 風邪引くぞ」
二人を置いて二階へ上がると、海南が自分の部屋の前で待っていた。
「お兄ちゃん、みっちゃんに私の服貸してもいい?」
「ああ、いいけど、ちゃんと海南も着替えるんだぞ。 あと濡れた制服はきちんとハンガーにかけること」
「…小姑みたいだな」
遅れて着いてきた瀬古にそう言われるが、半分無視して僕の部屋の扉に手をかける。
「とりあえず、ここが僕の部屋。 瀬古にも服を貸してやる」
「おお、サンキュー」
破顔して言いつつ、瀬古が後ろから首に腕を回してきた。
「というわけでこっからは男子チームと女子チームな。 文句はねぇよな?」
水月の眉間にしわが寄り、心なしか目つきが鋭くなる。
「…瀬古くん? あんた変なことしたらぶち殺すからね」
低音で冷気を纏った言葉を告げ、明らかに瀬古をにらみつける。
どういうわけか僕の背筋が寒くなる。
「や、のぞくとかそういうことはしない奴だから…」
「…それはそうよね」
僕が何故か瀬古のフォローすると、水月は更に口をへの字に曲げた。
…そうか、水月は怒らせると怖いのか。
幼馴染の新たな一面を知った……あまり知りたくない一面だったが。
僕の気持ちを知ってか知らずか、
「なんか俺って信用ないのな…ま、そんなことにはならないって」
と瀬古は気楽に返した。
そして、僕の背を押してやけに上機嫌で部屋に入ってきたのだった。

「瀬古、お前これ着れるか?」
「…あー、まぁ多少小さくても我慢はするぞ」
「うわむかつく。 お前がでかいんであって僕が小さいわけじゃない」
瀬古に適当に選んだTシャツを渡して、僕も濡れた制服を脱ぐ。
制服は満遍なく水を吸ってずしりと重く、乾くまでに大分時間がかかりそうだ。
…うん、Yシャツが張り付いて気持ち悪い。
この調子だと下も全部変えないとダメだな。
ふと思い、瀬古にも尋ねる。
「お前は下どうだ?」
「ぅえっ!?」
何故かTシャツを持ったままぼーっと突っ立っていた瀬古は、のけぞる勢いで叫んだ。
僕がびっくりして固まっていると、5秒ほどしてから瀬古は我に帰ったらしい。
「……ってああ、下着。 そこまでは…濡れてない」
「いきなり叫ぶなよ…。 なんなら貸すけど」
「いやっ!そこまではいい!!」
「…まぁ、いいけど」
何故か断固として拒否された。
確かに、友人でも下着の貸し借りは抵抗あるか…。
Tシャツとスラックスに着替えると、何だか疲れがじわじわと出てきた。
疲れに任せてベッドに横たわってから、まだ髪が濡れていることを思い出す。
「あ、やばい、髪乾かさないと…」
「つーか…お前の髪って濡れると色が濃くなるんだな」
「大抵そうじゃないのか? …まぁ確かに、普段よりは茶色っぽく見えるか」
僕は自分の髪を弄びながら答える。
海南は母親譲りの烏の濡羽色だが、僕の髪は英国人の父親譲りの金髪である。
また、名前と容姿が合わないためによく誤解されるのだが、「山南」は母親の姓である。
旧家の娘である母親が「外国人」と結婚するにあたっていろいろ本家と揉めたらしく、「山南」の姓を残すことで和解したらしい。
昔の人の考えはよく分からない。
更に僕は父親に似たために祖父母から蛇蠍の如く嫌われ、母親に似た海南は溺愛されるといったことも起きたため、母は祖父母を含めた本家が僕達に近寄らないように手を尽くしたらしい。
…それにしても、あの頃のことを思い出すと気が滅入る。
とりあえず髪のことは諦め、体の重みに任せてベッドに横たわる。
と、瀬古と視線が合った。
「というかお前、それは無いんじゃねぇの?」
「は? 何が?」
僕が聞き返すと、瀬古は何故か溜め息をついて肩を落とした。
「…何でお前寝てんだよ」
「瀬古に気を使ったって仕方ないだろ」
「あぁさいですか。 …あと、俺は今から着替えるからこっち向くなよ」
「どこの乙女だよ」
うっせ、とだけ言って瀬古は背中を向けて着替え始めた。
…なんで今まで濡れた服のままいたんだこいつは。
その後、風呂には女子二人が先に、瀬古、僕の順番で入ってから僕の部屋で雑談を交わした。
二人が帰ってから、「瀬古さんって、カッコいいけど、面白い人だね」と海南が若干顔を赤らめていたのは何かの気のせいだと思いたい。
まぁ、楽しかったのはいいことだろう。
それでも流石に疲れたようで、海南は早々に休んだ。
……ふむ、となると手紙に気付くのは明日以降か。
明日、差出人を調べても良さそうだ。
となると、あいつに頼むのが一番かな…。

「深山、ちょっといい?」
明日の算段を立てていると扉がノックされ、母親が部屋に入ってくる。
「どうしたの」
「…海南のことなんだけどね、カウンセリングを受けさせようかと思ったんだけど、どう思う?」
疲れたように見えるのは気のせいではないだろう。
母は、昔から子どもに何かあると放ってはおけない性格だ。
「…カウンセリングって、よく知らないけど話さないといけないんだろ? 海南の気持ち次第だと思うけど」
「そうか、そうよね……分かった、明日海南にも聞いてみる。 あ、あとね」
「何?」
「担任の先生ともお話してこようと思うの。 もう一週間になるでしょう?事情をお互いに整理しないといけない時期かなって」
母は顎に拳を当て、更に眉間にしわを寄せた。
この表情は、母がイライラしている時の典型だ。
「…正直、向こうから何の説明も無いのは癪に触るけど、だからといってこのままでいいわけもないし」
僕は、ふと思いついて母に言う。
「そうだね…母さんに任せる。 と言いたいところだけど、明日僕からも担任の先生に話を聴いてみるよ」
「本当?」
母の顔がパッと明るくなり、同時に眉間のしわも消える。
そして深々と溜め息をついた。
「やっぱり深山は頼りになるわ。 あの人ったら、『日本での勝手は分からないから』なんて言うし、どうすればいいのか困ってたのよ」
「だろうな、って思ってたよ」
僕は苦笑して答える。
父親はそもそも仕事が忙しく、子どもに接する時間はほとんど無かったといっても過言ではない。
更に、内気で口下手な海南とのコミュニケーションを不得手として『女の子は難しい』なんてしたり顔で言うもんだから、益々母の苛立ちは募っていく。
「そうね、深山は本当に海南のいいお兄ちゃんだわ。 じゃあ明日、頼んだわね」
母はそう言い残して、すっかり上機嫌になって部屋を出て行った。
軽い足音が階段を降りていくのを聞きながら、僕はそっと溜め息をつく。
「どうも母さんは僕に幻想を抱いてるよなぁ」
呟いて、自分でその台詞に苦笑する。
「むしろ、僕が海南の幻想でいたいだけか…」
窓から空を見上げると、月が出ていた。
雨は止んで、夜空の深い藍色に丸く白い顔をした月がぽかんと空に浮かんでいる。
その月にひやりと首筋を撫でられた気がして、首をすくめる。
冷気は窓の隙間から来ているようだ。
いつ開けたか覚えがない。
僕は首を傾げてから、窓を閉めた。
雨が吹き込んだ様子も無いので、僕は少し安心する。
室内にカビが発生するのは御免だ。
それにしても、4月とはいえ夜は冷える。
「…明日は晴れるといいな」
そう願ってから、僕はベッドに潜り込む。
睡魔は直ぐに訪れ、僕の意識を暗闇へと引きずり込んだ―。


体中が痛む。
ずきずきと、痛みは心を苛んでいく。
土にまみれた体。
踏みつけられる度に、プライドまで泥で汚れていく。
なんでこんな目に遭わなきゃならない?
許さない………ゆるさない。
いくつもの嘲笑を浮かべる顔、顔、顔、顔。
それらをにらみつけて、感情のままに殴りかかる。
拳が当たると、顔は溶けるように、手応えもなく消えていく。
お前らが、お前らが、お前らが!!
顔を一つ消す度に、感情は収まるどころかより激しく燃えていく。
全ての顔を消して、僕は暗闇の中に佇む。
嫌な汗が、体中をじっとりと濡らしている。
暗闇の奥を尚もにらんでいると、ぼんやりと、一人の少年が現れた。
少年は、僕に哀れみの目を注ぐ。
しかし、決してこちらに近づこうとはしない。
僕の感情はそいつにも向かった。
拳が当たる瞬間、その少年の瞳は揺らいで、霞むように消えていった。

いらない。

消えろ。

全て。

壊れろ。

拳をきつくきつく握りしめて、呪いの言葉を吐く。
暗闇が僕を侵食していく。
自分の体が黒く染まっていくのを、見守る。

「…。…。………………っ……っ」

…声が聞こえる。
遠くで。
瞬間、腕を誰かに捕まれ、引っ張られる。
それと同時に、空間が白い光にかき消された。
………………




「おにいちゃんっ!!」





びくりと、体が跳ねた。
目の前に海南の顔がある。
「大丈夫? 全然起きてこないし、呼んでも返事なかったから…」
「あ、ああ、うん、ごめん。 大丈夫だよ」
体を起こして、慌てて時計を確認する。
7時。
いつもより1時間も遅い大寝坊だ。
「本当に大丈夫? ……泣いてたよ?」
海南が言い難そうに言葉を紡いだ。
指先で目元に触れると、確かに濡れている。
「…本当だね。 でも、大丈夫だよ……悲しい夢を見ただけだから」
「……」
海南に、いつものように微笑んでみせる。
それなのに、何故か海南はきゅっと唇を噛んで、目を伏せた。
…失敗、した?
いつもなら僕が笑えば妹も笑うはずだった。
それなのに、なんで?
「…お兄ちゃんがそういうなら、ほんとだよね?」
短い沈黙の後に、床を見たまま海南は言った。
「……うん、本当だよ」
僕が答えると、海南は顔を上げた。
いつもの笑顔。
「早く食べないと朝ごはん冷めちゃうよ」
そう言って、ぱたぱたとスリッパの音を立てて部屋を出て行った。
…いつもの妹だった。
だけど、僕は、何を間違えた?


もやもやした気分を抱えながら午前の授業を終えた。
瀬古から昼の誘いを受けたがそれも断り、昼休み、僕は弁当の包みを手に高等部1年の廊下を歩いていた。
上級生であることと金色の髪のせいで悪目立ちをしているのが分かるが、そんなことは気にしていられない。
1-4と書かれたプレートのある教室を覗き込むと、目当ての人物は人の輪の中心になって話していたところだった。
彼は僕の視線に直ぐに気付いたらしく、こちらを向き、僕だと分かると笑顔で手を振ってきた。
僕も手を振り返すと、彼は人の輪からするりと抜け出してこちらにやってきた。
「やまくん、久しぶりだね。 どうしたの」
レンズの薄い眼鏡をかけた顔に人懐こい笑みを浮かべ、そう声をかけてくる。
「頼みたいことがあるんだ」
単刀直入に切り出すと、彼、霊界堂晶(れいかいどうあきら)は胸に手を当て、
「ボクに出来ることだったら、何でも言って。 やまくんは大切な友達だからね」
そう言って笑みを深くする。
学年は一つ違うが、晶は僕にとって友人で、恩人だった。
いつか借りを返したいとは思っているのだが、情けないことに頼ってばかりになっている。
今回もその例に漏れない。
「妹が手紙をもらったんだけど、その差出人の人となりを確かめたいんだ」
「ふぅん? 妹さんって、確か中等部に入ったんだよね。 こんな時期にラブレター?」
「いや、違う。 そもそも女子からの手紙だよ」
「同性からといってもそういう可能性だってあるさ」
「…そんな感じの文面じゃなかったぞ。 怖いことを言うな」
晶は「んん?」と唸って首をひねった。
「妹さんに送られた手紙を読んだの?」
「まぁね…」
僕は曖昧な表情で肯定する。
晶はまだ「んー」と唸っていたが、それ以上は何も言わずに頷いた。
「ん、分かった。 で、ボクは何をすればいいのかな?」
「えーと…その差出人の名前が大海原心雷っていうんだけど」
「ああ、なるほどね。 そういうこと」
それだけで晶は全てを察したようだった。
「じゃあ、栂村(んがむら)先輩にはボクの方から上手く言っておくよ」
「…助かるよ。 それで、いつ?」
「ジャストタイミングで、今日の放課後だよ」
「今日? …うーん…まぁ、大丈夫か」
今日中に海南の担任から話を聞かなければならないのだが、それが終わってからでも大丈夫だろう。
晶は僕の返答に満足したように頷いて、それから嫌な笑みを浮かべた。
「あと、そうだねぇ、薬袋先輩にも手伝ってもらおうかな」
…この顔が出た時には、いいことが起きた験しがない。
というか、僕に対する嫌がらせをする時の顔だった。
晶は頼み事をすると必ず一つ、僕への嫌がらせを作戦上に織り込むのである。
まぁ、晶の嫌がらせは絶対に周りに被害が及ばない。
純粋に晶が楽しむためのものなのだった。
そして、頼むことに引け目を感じる僕への、彼なりの配慮であることも知っている。
「…水月に?」
半分諦めて聞き返すと、晶は実に楽しそうに答える。
「うん、何せ彼女は本会員だからね。 ボクとは違う」
「ふぅん…?」
何か、意図して答えをずらされたらしい。
嫌がらせの内容はその時にならないと分からないようだ。
何にせよ、これで目処は立った。
晶に礼を言って別れ、弁当を食べる場所を見つけようと校内をうろつく。
そして1階まで降りた時、ふと、足が止まった。



学校では昼休みの時間。
海南も空腹を感じてお弁当を開けたところだった。
気配を感じて振り向くと、やはり、昨日と同じ男子生徒が立っていた。
今日は先にお昼の確保をしてきたらしく、ビニールの袋を提げている。
「こんにちは」
「…こん、にちは」
彼は迷いなく、海南の隣に腰を下ろす。
「美味しそうなお弁当だね」
「え?」
昨日とは違って、声をかけてくる。
戸惑いながらも、海南はそれに答えていた。
「お母さんが作ってくれるの?」
「えっと…わ、私、自分で……一応」
「自分で作るの? 凄いね」
「す、すごくなんかないです…」
「なんで? 僕の周りの人はほとんど親に作ってもらってるのに、それを感謝もしないで食べるやつらばっかりだよ」
「……で、でも…私は、そんな」
「じゃあ、君はどうして自分で作るの?」
「え…えっと…」
「何か理由があるんだ?」
「う……あ、あの…おにいちゃんが…」
「お兄さん?」
「おにいちゃんが、喜んで、くれるから…」
「だから作るんだ?」
「はい…」
「優しいね」
「そ、そんなんじゃないです」
会話がそこで途切れた。
彼は持ってきていた袋からカレーパンを出した。
カレーパンの包みを無造作に開けて、一口かじる。
そして、今時珍しい瓶の牛乳に口をつける。
それを見て、海南もお弁当に箸をつけた。
今日の卵焼きはきれいに焼けた。
ちょっぴり、自画自賛しながら食べる。

「何があったの?」
「!」

お弁当を食べ終わって一息つくと、彼はいきなりそう言った。
びっくりして、思わず真正面から彼の顔を見てしまう。
彼も、海南の目を真っ直ぐ見ていた。
「な、なんで……?」
取り繕うことすら思いつかずに、ただ、海南は疑問を口にする。
「…元気がないみたいだったから」
「……」
私って、そんなに分かりやすいのかな。
海南は思わず顔に手をやる。
そんな海南を見て、彼は苦笑した。
「放っておけないんだ」
「え?」
いきなりの話題転換についていけず、海南は彼の顔をじっと見つめる。
「…前に一度、知っていたのに何もしなかった自分が嫌いなんだ。 もう、そんな自分でいたくはないんだ」
話が分からない。
混乱する海南をよそに、彼は言葉を紡ぐ。
「だから、今は、とにかく声をかけるようにしてるんだ」
「……」
海南は呆けたまま、彼の言葉を聞いていた。
だけど、やっぱり分からない。
この人は何が言いたいんだろう?
「…ごめん、唐突だよね。 ええと、だから…」
そんな海南を見て、彼は困ったように言葉を探している。
そして、言葉が見つかったらしい。
「困っている人を助けたい。 それが理由じゃ、ダメかな?」
「あ…」
彼は『何で?』と言った海南の言葉に、一生懸命答えていたのだ。
何故か、海南は笑ってしまった。
「ふっ…ふふ…」
「あ、笑ったな」
「す…すみませ…っく」
ぷるぷると、体が震える。
こらえていると、余計に可笑しさがひかない。
たっぷりと時間をかけて笑いを引っ込める。
肺に溜まっていた空気を吐き出してから、海南は顔を上げた。
「いい人なんですね」
「あれだけ笑っといて、その言葉はないんじゃないかなぁ…」
今までの飄々とした態度が嘘のように、憮然とした表情で彼は言った。
「ご、ごめんなさい」
慌てて海南が謝ると、彼は横目で海南の顔を見てにやりと笑った。
「初めて君の笑った顔が見られたから、それでチャラにしよう」
「…えっ!? あ、あの、わたしっ」
すんなりと恥ずかしい台詞を口にされ、海南は慌てふためいた。
顔が熱い。
兄以外の男性からそんなことを言われたのは初めてで、どう返していいのか分からない。
そんな海南の様子を見て、彼は声を出して笑った。
「ははっ、ごめん、そんなに真っ赤になるとは思わなかった」
どうやらからかわれたらしい。
むぅ、と海南は頬を膨らませて怒った表情を作る。
それを見て、彼は困ったように笑った。
「本当にごめん。 でも、笑ってる君はかわいいし、そうやって怒ってる顔もやっぱりかわいいよ」
「に、二度はだまされません…!」
警戒して怒った表情を崩さない海南を見て、すっと彼は立ち上がった。
「嘘じゃないよ。本当に」
そう言って彼は歩き出す。
海南が背中を見送ると、10歩歩いたところで、彼は振り返った。
「悲しい顔より、ずっといい」
目を見開いて、彼を見る。
彼は優しく微笑んでから、校舎へと歩いていった。
昨日遇ったばかりなのに、どうしてあの人はこんなに優しいんだろう?
どうして、あんなに私のことが分かるんだろう?
ぐるぐると、頭の中で疑問と、くすぐったいような嬉しさが巡る。
「……明日も、会えるのかな……」
海南の声は、春の空気に紛れて消えていった。



「歌…?」
僕は耳に神経を集中させる。
美しく澄んだソプラノ。
特別教室しかない1階は生徒たちの喧騒がなく、微かな歌声が空間を支配していた。
音の聞こえる方向へと足を向ける。
本当に微かで、霧散してしまいそうなほどの儚い音だったが、その響きは聴く者の心を捉えた。
こんな時間に合唱部が活動でもしているのだろうか?
と、唐突に歌声が途切れた。
歌に導かれるように進んでいた足も同時に止まる。
どうやら、辿り着く前に歌が終わってしまったらしい。
なんとなく名残り惜しくてその場に留まっていると、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、一人の男子生徒がこちらに向かって来ていた。
廊下の真ん中で突っ立っていたので、邪魔にならないように脇にどく。
なんとなくその男子生徒を観察してみる。
線の細い顔立ちだが、体つきは意外にしっかりしている。
運動部に入っているのだろうか。
自分の貧弱な体型を思い出して、少し落ち込む。
どうも、僕の体は筋肉の付き難い体質らしい。
目の前の男子生徒が羨ましく感じる。
と、ずっとうつむき加減で歩いていた彼が、こちらを見た。
ばっちり目が合ってしまった。
彼は驚いたような顔をしている。
…しまった、視線を外すタイミングを逃した。
僕は気まずくなって目を逸らし、彼の横をすり抜ける。
と、
「タカマサ!」
後ろから女の子の声が聞こえた。
どうやら彼に声をかけたらしく、彼が何か言うのが聞こえる。
何故か背中に視線を感じたが、僕は振り返ることなくその場から逃げ出した。
しばらく歩いてから、中庭のベンチが空いていたのでそこに腰掛けて弁当の包みを広げる。
今日の中身は、鶏肉と筍の煮物に卵焼き、菜の花の辛し和え、そら豆のバター炒め。
煮物は昨日の残りだからよく味が染みているし、庭に生えてる山椒の芽が添えられていて清々しい。
おお、今日は卵焼きの焦げ目がいい感じ。
ちなみにうちの卵焼きはダシ巻きの甘めだ。
口に入れると、ふんわりと甘く、幸福感が口内から全身を満たす。
ふと、先程の男子生徒の顔を思い出す。
…あれ、どっかで会った事なかったっけ?
卵焼きを咀嚼して飲み込んでから、僕は来た方向を振り返る。
もちろん、彼の姿はない。
そういえば、晶が眼鏡を外した顔に似ていたような気もする。
顔は違ったが、雰囲気がなんとなく似ている。
…あぁ、そのせいか。
弁当を食べ終わり、ぽかぽかとした春の陽気に眠気を誘われる。
う…やばい、眠い…。
夜に熟睡できなかったせいもあり、どうやら体が睡眠を欲しているらしい。
放課後には予定も詰まっているし、一つ授業をサボってしまおうか。
そうと決めたら即実行。
瀬古にサボタージュメールを送り、保健室へと足を伸ばす。
保健室は、先程男子生徒と会った廊下からそう遠くない位置にある。
「失礼します…」
ガラリと引き戸を開けると、予想通り養護教諭の姿はなかった。
仕事熱心なため、逆に保健室にはいないことが多いという噂は本当らしい。
室内を見渡すと、一番奥のベッドはカーテンが引かれており、先客があるようだ。
上着を脱いでネクタイを取り、Yシャツを緩める。
先客の邪魔をしないように、静かに一つのベッドに横になる。
穏やかな眠りは直ぐに訪れ、チャイムの音をどこか遠くで聞いた。


深山が寝入ってから30分ほどして、奥のベッドのカーテンが開いた。
栗色の色素の薄い髪を、長く伸ばして背中に垂れている。
小柄な少女だ。
「…貴正?」
少女は眠そうな目をこすって、よく知る少年の名前を呼ぶ。
一つのベッドに、カーテンが引かれているのが見えた。
少女はふらふらとそのベッドに近づいてカーテンの隙間から覗き込む。
自分の見知った顔があると思っていたから、余計に驚いた。
金色の髪、真っ白な肌、天使のように安らかな寝顔。
そして、少女は気付く。
「……!」
彼から何度も聞かされた、それ。
少女は弾かれたようにその場から駆け出した。
彼を呼ばなくちゃ。
早く、早く―

………………………



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